昭和五十六年十二月十四日 朝の御理解
御理解第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。
天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。
天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある」
合楽の信心を頂きますと、先ずはこの天地日月の心という事が聞かされます。天の心、地の心ね、ここは日月の心だよというふうに教えられるわけですが、その天地日月の心が私共の生活の中に入り込むというか、こちらが天地の中に溶け込んでいくというか、そこには人間心というか人間的考え方、観念というものが段々なくなってまいりませんとね、天地日月の心がすっきりといたしません。とにかく、観念が私共の信心を支配する場合がございます。
昨日は十三日会で、皆さんの本当に素晴らしいお話を、本当に素晴らしいお話を一人一人の御信心体験を語っておられましたが、中に上滝さんの素晴らしいお話がこざいました中に、孫が朝な朝なに熱が出る。どこから出てくるのか分からない、まあお婆ちゃんとしてはそれが心配なわけ、勿論、日参りさしてもろうて一生懸命お願いをする。それでもやっぱり熱が出る。そういうある日に今朝は何度、熱が何度だったとこう体温計を毎朝で計る時に、お取り次を頂いた時に体温計があるからおかげにならんというような御理解を頂いて、普通の理屈から言うたらね、そんな体温計も計る事できんかと使う事もできんかとね。体温計にはっきりと熱が何度何度とある。もうそれだけでいうならそういう観念だけで病気がおかげがぐずつくんですね。
私共、これは段々おかげ頂いて腎臓が悪いとか糖尿病であるとかまあ色々言われます。けれどもそれはどこまでも糖尿病という名の神様の御都合だと思ってます。だから糖尿病というのはこんなにも怖いもので、為にはこういう食物でこういう甘いもんないかんぞ、辛いもんないかんぞと言うふうにこう観念してしまうわけですね。だから、私の場合は甘い物も頂きゃ辛い物も頂く、というて無理して頂くというわけではないですけれども、いわゆる頂くという心あらば障る事なしとおっしゃる。これは一切がそうなんです。一切の事柄を頂きますという事は最近ここで言われる“和すれば乱れる事なし”というね。
様々な才、知識というものが身に付いてきます。少しばかりの勉強でそこに観念が生まれます。その観念に支配される。こうしたからこうだろう、あれを食べたからこういうふうに悪かったんだろうというようなね、そこにはもう頂きますと口では言うとっても、頂きますという事にならん、頂きますという心あらば障る事、あたる事ない、こう観念するのです。何々病と言われてもそれはははあ何々病にはこうしたらいけない、ああしてはいけないじゃなくてね。神様の御都合なんだ、糖尿病という名の神様の御都合なんだと観念する時に、もうその糖尿病は糖尿病じゃない。もう神様のふなどういう御都合かというと、神愛以外にはないね。
そういう御理解を頂いて、上滝さんあーそうだなと思うて帰ったら、その昨日の発表の中に言っとられましたように、体温計が何か応接台の上なんか手落したかなんかでしょう、割れた。そん時におかげ頂いたとこう思うたとこう言うんです。もうこれには頼らないという、いうならね、観念をなくそうと努力したわけなんです。だから、そこには神様が又、そういう働き、これはね、こちらが本気になると神様もやっぱ本気になって勉強さして下さるんですよ、本気で勉強しょう本気で修行さしてもらおうと思うと神様が修行さして下さるようにですね。私はそれを聞きながら確かにそうだなぁと、体温計がそこにあればつい計ってみる計ったりする手がもう体温計が、昨日親先生が体温計に頼るな、体温計はいらんとこう仰った。そしたらそれが割れておる。もう体温計を計る必要ないぞと神様が言よんなさるもんとして受け止めておるから、その観念がそのようにして観念が段々なくなっていく、一事が万事にそうなんです。ね、本気で取組んでおらなければ神様もやっぱり本気で取組んで下さらない。
行橋の支部長が発表しておりましたね。それこそもうなにかですきっと切って放したような話ぶりですね、あの人の話は。もう合楽にお参りをしてここで皆さんがお届けをくどくどと長々としとられるのを見ると、おかしいとか不思議でたまらんと言っていますね。はあーどうだあーだでございます、それも長々とそれをお届けしなきゃお参りした事ないごたる気持ちです。そのお届けをする内容そのものがね、神愛であると分かったらふんなら次には、合楽理念によるそういう時にはこういう行じ方、そこはここが足りんのぞというふうに教えて頂いとるんだから、長々とお願いだけして自分が
合楽理念の実行者ではないという事をあれはさらけだしているようなもんだといったような意味を言ってましたでしょう。
確かにそうなんです。ね、けれども私はそれはまあ信心にもいろいろ程度ですからね。それこそ牛馬の事に至までと仰せられるのですから様々な心にかかることは願うてもよいですけれども、結論はやはり神愛です。一切が神愛と分かったら全然そこには問題ないのです。それがね、いうならば天地日月の心というのが段々自分の血に肉になっていかなきゃ、なっていくその過程において私は観念をなくせろというのです。
だから、その辺やはり信心をするとこう変人になれと言われます。だから変人ぶりというものがね、段々身に付いてくるね。体温計ね、それが熱がどけだけあるかという事がはっきり分かる。分かって平熱なら安心する、少し熱があるとするとどっから熱がでよるやろかと言うてもういらん心配をせんならんね。熱があろうがあるまいが、神様のおかげであり神愛でありね、そしてほんならそこに例えば、もう癌で苦しいと苦しんでおるとするならば、その苦しいのをじっと見ちゃおられんからほんならどういう信心させて頂いたならよいかという事になったら、くどくどと長々とお取り次を頂くのはかえってそれこそナンセンスだというわけなんですね。
まあそう言ってしまえばね、初心の人なんかはそれこそ意味がわからんでしょうけれども、段々やはりそういうおかげを頂きまして有難うございますと、それこそ、阿倍野の先生ではないですけれどもね、あれだけ毎月二千からの信者を引き連れて御本部参拝をなさる。そうりゃ二千からの信者がおるごっぢゃけんそうにお願いがあろうと思うけども全然お願いをなさらない。もうそれこそ捧げ持ったお初穂を置かれたらね、金光様おかげを頂きまして有難うございますとこの一言です。その一言のもうそりゃあ、本当に千万無量というかそれこそ千両役者でもあんな実感の有難う御座いますは言えんだろうと思われるほどしの有難う御座います。
私はもう十数年も前に丁度私共がまあだ椛目の時代でした。椛目から二、三十名の者が参っとったでしょうか。したら、沢山の団体がお広前へ入って見えた、元のお広前です。どこの団体やろかと言ったら、あれが阿倍野げな、阿倍野の先生取り巻きの先生方を従えて、そして金光様の前へ出られた、私はそのちょっと一間ばかり離れた所からその様子を拝ませて貰いよった。はぁーもそりこそ大変なお徳を受けられた先生げな、はぁこの方が阿倍野の先生ばいなあと思うて見せて頂いとりましたら、まあだ三代金光様が御在世の頃でしたかね、もう本当に金光様おかげを頂きまして有難う御座いますという一言であった。もうその一言の有難さがもう兎に角そのあまりの素晴らしさにね、もう驚いた、病みつく位だった、はい。
私はある時に、神様からお知らせ頂いた事があって、もうその朝飛行機で阿倍野の教会に行きました。そしてもうお年八十からですからね、先生生前のうちに一辺お会いしておきたいと思って参りました事が御座います。本当に大した、兎に角有難い有難いの一念。そう有難い椛目のような方です。そこに沢山な人が助かる。一切を有難い有難い理屈じゃないそれは神愛ですよ、こうですよというもう一切をもう無条件で有難いと受けていかれるという先生ですね。 ですからなかなかそんなに一辺になれる事が出来ませんから、ほな本気で天地日月の心とはかくだぞ、こうだぞと教えて頂くんですからそれを本気で取組ませて頂いとるうちに、確かに神愛だなぁという事がわかってくるわけです、一切の事が。
だからほんなら行橋支部長の場合は、もうどんな場合であっても乱れる事がない。お父さんがどんなにお酒で酔狂まわそうが、どんなに沢山な借金でのまあ催促に責め立てられようがね、それこそ神愛有難し神愛有難いで受けていく、そういう状態が開けてくるね。その、私は過程というものが天地日月の心になること肝要と教えられる。
そういう実験実証をしていきつつある、昨日の佐田先生の奥さんが発表してましたね。もう本当に一~十までを実験実証の模様を、それこそ実感をこめて話しておりましたがね、ああいうそれこそ末永先生が佐田先生宛てに出した手紙の中にお道の教師というものは教えを守るということにその図からいかなければいけませんという一言があったといっていますね。もうその事だけに専念するんですね。ですから、その体験というものはもう生々として実証が生まれてくる。そういう実証の積み重ねが、いわゆる一切神愛というようなすきっとした頂きかたがでけるようになる。
その言うならば在り方の中に、なかなか一辺に観念がとれませんけれどもね、上滝さんの例じゃありませんけれども、熱心に信心しているようである、一生懸命お参りもしているようである、大概信心はわかる事はわかっとるけれども、まあだ、さあ子供が孫が熱があるといやあ医者にもかけてみたい、体温計にも頼ってみたり、だから体温計はいらんと言われて、そうだと思うたらもう家では体温計が割れとったとこう言うのである、ね。こちらがその気になったら神様がそういう働きをこう現して下さるですよね。そこからもう体温計には頼らん、もうそこからこう当たってみると熱があるごたるけども、今日から僕はもう学校に行くちいうてまあそれなり学校へ通わせて頂いておかげを頂いてるんです。いやあ、今日はあんた熱も何度もあるけん今日休まんのという事もないわけね。いわば、天地日月の心というのはそういうような過程を踏まえて天地日月の心が本当なものに、いわゆる血に肉になっていくんだというふうに思うんですね。
行橋支部長じゃないですけれども、もう一切が神愛で片付けてしまう、まあちょっと初め、初心の信者には無理だろうと思うけれどもその確信がほんなら行橋地区にあんな御比礼が輝くようになったんです。それを教えたり取次いだりするその人がもう神愛だと、こっちは分かっとらんけれども取次ぐ者自身が神愛だというね、受け止めておりますから。
だから、天地日月の心になる事肝要ということは、まあ極言すると一切が神愛の現れであるという事をわからせて頂く最高の教えだという事になりますね。そしていつのまにか観念が取れてまいります。観念に左右されるような事がなくなってくるのです。
今、ここまで皆さんに聞いて頂きましたが今、神様からこういうお知らせを頂いたんです。こう「小指と親指をこうだしてる所です」ね。これは親指でしょうね、親の願い。これは信者、私共ね、まあ言うなら信心に傾倒するという事はそれこそ恋人にでも会いにいくような思いでまあ、信心がでけとるといたしましょうか。例えば今の上滝さんあたりの毎日の朝参りは、私はそうだと思うのです、ね。
だから、それでおかげ頂くというのじゃないです。先ずこの人差し指がのびなければ、中の高々指がのびなければ、この薬指がのびなければね、これで一切をつかむというおかげになってこないですね。人というのは人が何と言うてもという事じゃないでしょうか。高々という意味は、これは自分の本心の芯ですね本心の玉という事じゃないでしょうか。薬指というのは、今日皆さんに聞いた薬というに対する観念です。ね、薬指。これが三つながらこう、例えばこう信心をしとるというのがこの姿であるならば、信心していくうちにいつのまにか天地日月の心の実験実証さして頂いているうちに、人が何というても本心の玉を研く事にね、いわば薬という事はこれはいわゆる物に頼るとか、神様一心になるそういう薬、そういう観念がなくなるという事。これが全部五つの指が開いた時に初めて、自由自在なおかげの、それこそつかみ取りというようなおかげにもなってくるのじゃないでしょうか、ね。どうぞ。